(寄稿)「愛媛へのラブレター 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦」

(寄稿)「愛媛へのラブレター」 

第一回 松山・野球拳・イケメン連 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 かれこれ五年前、転勤で愛媛・松山にやってきた私がまず驚いたのは、街なかに点在する俳句ポストでも、実は「〜なもし」と言う人はもはや存在しないことでもなく、「野球拳おどり」なる夏祭りがあることだった。四国の夏祭りといえば、全国的には徳島の阿波踊り、高知のよさこいがよく知られているが、松山の「野球拳おどり」ももう四十年続いているという。大いに感嘆すると同時に思った。「野球拳の存在は全国津々浦々老若男女知っている。でもそれが松山で生まれたことは誰も知らない。何て“もったいない”」と。
 野球拳、その歴史は大正十三年までさかのぼる。この年、高松で実業団の野球大会が行われ、強豪の伊予鉄道野球部も松山から遠征。しかし、結果は完敗。その夜、懇親会の席で意気消沈する部員たちを奮い立たせるために副監督の前田伍健は即興で詞を作り、節をつけ、部員たちに躍らせた。座は大いに盛り上がり、夜の部は松山勢の大勝利。こうして生まれた野球拳はその後、全国的な流行を見せることとなる。
 野球拳と宴席芸、そして松山。何の脈略もないかというと、そんなことはない。愛媛は夏の高校野球の勝率が都道府県で一位の野球王国であるが、その歴史をひもとけば、明治の半ば、東京で野球を覚えた正岡子規が故郷でその楽しさを広めたことに始まったといっていい。そして、歌舞音曲の盛んな城下町であり、文化的素養を持った人が多くいたということ。前田伍健はのちに県川柳文化連盟の初代会長も務めた、まさに文武両道の人。野球拳は松山で生まれるべくして生まれたのである。これを松山の情報発信に、あるいは観光資源として活かさない手はない。
 しかし、松山の真夏の風物詩として定着する一方で参加団体が年々固定化。祭りへの市民の参加感をどう高めていくかが主催者の悩みでもあった。これまで一度も足を運んだことのない若者が行ってみたくなる祭り、なおかつ観光客にもアピールする祭りを自分ならどうやって作り上げるのか。目の前を通り過ぎてゆく踊りの連を眺めながら考える私の脳裏に浮かんだキーワードは「イケメン」だった。松山中からイケメンだけを集めた連(グループ)を結成し、ひやかしで構わないので、まずは女性たちにイケメンかどうか真偽を確かめに足を運んでもらう。女性たちが集まれば、男性たちもつられて集まってこようというもの。こうして平成十六年夏、「イケメン連」は誕生した。飲食店の店員、学生、会社員・・・所属も年齢もバッググラウンドもまったく異なる男たちのただ一つの共通項は「イケメンである」ということだけ。
 せっかくなら衣装も歴史と伝統を大切にしようと、縞(しま)の織物で製作した。松山の織物といえば「日本三大かすり」に数えられる「伊予かすり」が有名だが、かすり以前から織られていたのが「松山縞」「道後縞」と呼ばれた縞織物であった。鳴り物として用意したのは愛媛の伝統工芸品、砥部焼の丸い皿。野球拳にちなんで白球をイメージし、未来に向かって「飛べ!」の意味も込めた。縞織物も砥部焼も平成の若者たちにとっては、残念ながら非日常のものとなってしまっている。だからこそ、この「イケメン連」という仕掛けを、舞台を、彼らがそうした地場産業の歴史や地域が育んできた文化に目を向けるきっかけにしたい。生来欲張りな私のもう一つの願いでもあった。
 思えば、本当に暑く熱い夏だった。初めて野球拳おどりを目にした日からちょうど一年。こんな形で祭りにかかわることになろうとは思いもしなかった。ビデオを見ながらの個人練習が主だったため、メンバー全員が初めて顔を揃えたのはなんと本番二時間前。知らない者同士、最初こそ少し緊張していたものの、共通の思いを胸に踊り進むうちにいつしか固い絆で結ばれていた。「楽しかったです。また来年、声かけてください」。ゴール地点のメンバーは弾けんばかりの笑顔だった。
 ねぎらいの酒を酌み交わしながら、ふと思った。狭い松山といえども、「イケメン連」がなければ出会わなかったであろう若者たちがこうして出会ったということこそが、実は一番の収穫だったのではないだろうかと。人と人が出会うとき、そこにはエネルギーが生じる。所属が年齢がバックグラウンドが違う者たちの出会いだからこそ生まれたエネルギーもあったはずである。そして、それこそが地域を元気にする礎になり得るのではないかと思う。
 このときの彼らとの出会いが、現在の「まちづくりNPOイケメン連」の活動に発展することなど、あの夜には夢想だにしなかったが、「野球拳」がそうであったように、その気になって目を凝らしてみれば、足元には魅力的な宝がまだまだ転がっていた。それらをどう磨き、全国に発信するか。「円光寺の風呂吹き大根」「蛇口からポンジュース」「オリジナル日本酒・好漢(イケメン)」「愛媛みかんツリー」「じゃこかつバーガー」「坂村真民展」・・・。イケメン連のその後については、またの機会にお話しできればと思う。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第二回 嘘から出た実 蛇口から出たジュース 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 今年の正月、愛媛から発信されたあるニュースが日本国中を駆け巡った。そう、松山空港に設置された「蛇口からポンジュース」。私たちイケメン連メンバーにとってもこのニュースは非常に感慨深いものだった。というのも、いまを遡ること四年前、私たちはこの「蛇口からポンジュース」の企画を松山市の飲料メーカーに持ち込んだ。しかし、この面白さは理解されず、提案は受け入れてはもらえなかった。仕方がないので、身銭を切って自分たちで蛇口からジュースの出るタンクを作り、いわば勝手にポンジュースのPRを続けてきた。愛媛FCのホームゲーム時には県外からやって来る相手チームのサポーターに大人気。愛媛らしいユーモアを楽しみ、記念写真を撮った人たちは、いい土産話ができたといわんばかりに、インターネットなどを通じてさらに多くの人に宣伝してくれた。東京のテレビ局から要請を受け、タンク持参で上京しスタジオ出演したこともあった。こうして地道に活動を続けてきただけに、今回、飲料メーカーがあのようにカタチにしてくれたことはこの上ない喜びだった。
 県外の人が愛媛と聞いて思い浮かべるモノは、やっぱり第一に「みかん」だろう。愛媛の人にとってはあまりに「ありきたり」ですでに「飽き飽きした」ネタ、話題かもしれない。しかし、よその人たちはそれを求めているのだ。当事者にとっては当たり前なことも他人から見ると珍しくて魅力的というのはよくある話。「愛媛といえばみかん、みかんといえば愛媛」という誰しもが認めるアドバンテージがあるのだから、それこそ「みかんだけで百個のネタを生み出す」ぐらいの意気込みが欲しい。
 生産量日本一の座を和歌山に明け渡した翌年の平成十七年、私たちは消費者の立場から何か出来ることはないかと考えた。美味しくみかんを食べて、ふるさと愛媛を盛り上げたい! そして生まれたのが「愛媛みかんツリー」だった。本物のみかんの皮を使った五百個のオーナメント(飾り)は商店街などで市民にも協力を呼びかけ製作した。完成したツリーは一年目は県庁の正面玄関に、二年目と昨シーズンはより多くの人に見てもらおうと道後温泉街に設置、各メディアを通じて全国にも発信され、愛媛の冬の新たな風物として話題を集めた。嬉しいのは、このツリーが広がりを見せ始めたこと。三回目の昨シーズンは松山大学や坂の上の雲ミュージアム、伊方町の小学校、そして八幡浜ではみかん農家の女性たちが、少しでも産地のPRになればと、収穫作業で忙しい中、イケメン連メンバーの指導のもと夜な夜な集まって製作し、JR八幡浜駅構内に見事なツリーを飾り付けた。取り組みの輪を今後さらに広げ、コンテストなどが実施できればみかんの消費拡大にもつなげられるものと確信している。
 私たちは昨秋、イケメン連のメンバーから四人を選び、みかんをPRするためのユニット『愛媛みかん王子』を結成した。愛媛みかんのPRの効果を最大限にあげようとするならば、考えてみて欲しい。デパートやスーパーで日常的にフルーツを買うのは男性と女性どちらだろうか? お歳暮に贈る品の選択権は夫婦のどちらに、より大きくあるだろう? 答えは「女性」で異論はないと思う。ならば、若い女性よりも、ここはむしろイケメンくんがとびっきりの笑顔で「愛媛の美味しいみかんです!ぜひ食べてみてくださいっ!!」(にこっ)とやったほうが、財布の紐はゆるむに決まっている。絶対に(笑)。
 しかも、こういうキャンペーン隊は今や全国津々浦々、どんなちっちゃな村にも、どんなマイナーな業界にも存在すると言って過言ではない。つまり存在自体は目新しくも何ともない。そんな中で、より多くのメディアに取り上げてもらうにはどうすればいいだろうか? 答えは簡単「他がやっていないことをやる」ということだ。事実、みかん王子を結成するやいなや、東京、大阪のテレビ局、新聞、出版社が相次いで取材に訪れた。
 メディアに取り上げられること、それはより多くの消費者にタダで宣伝してもらえるということ。銀座で千個の試食用みかんを配っても、それは千人へのPR。でも、その様子が記事になり、テレビで流れたら……一気に数万、数十万の消費者に「愛媛みかん」を意識づけることになる。いかに多くの消費者に、「ここに、こんなに美味しいみかんがありますよ〜」という情報を印象強く届けるか。すべてはこの点にかかっている。なぜなら、みかんにしろ他の農産物にしろ、消費者は「知らないモノ」は買わないのだから。
 安心・安全なおかつ美味しいものをつくり消費者に提供することはもはや当たり前のこと。それをどうやって消費者に知ってもらい、手にとり口にしてもらうか。時代のキーワード(消費者の気分)にどう寄り添い、こちらの伝えたいメッセージ(こだわりや優位性)を届けるのか。ここにもっと知恵を使わなければ、宮崎産品と同じ土俵にあがることすら出来ず、消費者に選んでもらう機会は限られてしまう。「知らない」から「選んでもらえない」。愛媛の実に豊かな農産物を目の当たりにするとき、それはあまりに“もったいない”ことだと思うのである。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第三回 とにかく歩けばヒントに当たる 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 イケメン連の数々の取り組みについて講演などでお話しすると、決まって「次から次へと企画のアイデアがよく浮かぶものですね」と感心される。「どうしたら、ネタが見つかるでしょうか」という質問も受ける。私の場合、悩み考え抜いてひねり出すというよりも、頭に浮かぶまま、溢れてくるアイデアをカタチにしているだけなので、どうしたらと問われても、一言で答えるのは難しい。
 野球拳おどりへの初参加から三ヵ月後、あるとき私は知人と大街道で待ち合わせをした。しかし先方に急用ができ、一時間待たされることになった。これは幸いと、私は以前から考えていたことを実行に移すことにした。大街道・銀天街のアーケードを一軒一軒、どんなビルにどんな店が並んでいるのか観察する、ただそれだけのこと。商店主の目線に立ちながら、ときには消費者の気持ちになって、どうしたら中心市街地に客足が戻ってくるのか。日頃の暮らしの中で商店街に対し、不便・不満に思っていたことはなかったか――。
 もちろん仕事ではない。誰かに答えを求められているわけでもない。思考を自由に泳がせ、自問自答を繰り返す、極めて安上がりで暇つぶしには最上の「ゲーム」だ。しかし、何気なくこなしているこのゲームが、千本ノックのトレーニングのように、いざアイデア、ネタを生み出すときに大いに効いてくるのだ。
 まもなく市駅に到着という、銀天街のあるポイントで私は歩みを止めた。「円光寺」。松山に暮らして一年、幾度となくこの前を通り、気になってはいたものの、それまで境内に入る事はなかった。寺の案内板によれば、一六一五年、大阪城落城の際、豊臣秀頼の家臣だった郡主馬首良列は息子の信隆に僧になるよう遺言を残して自害。遺言に従い城を脱出した信隆は僧となり、清念と称して一六四九年、父親の菩提を弔うためにこの寺を開いたという。三五〇年以上の長い歴史の中で、特に七代目住職の明月和尚は学問・人徳に優れた名僧として今日に伝えられていること。また、円光寺伝統の精進料理に「風呂吹き大根」があり、明治二十九年、明月和尚の百回忌に正岡子規は盛大な句会を開き「風呂吹きを喰いに浮世へ百年目」の句を残していることも記されていた。
 私は嬉しくなった。目に見える姿形としての文化財はその多くを戦災で失った松山だが、こんなところにこんなにさりげなく、明月和尚や子規の存在を感じられる場所が残っていた――。この事実を一人でも多くの市民に知ってほしい。その仕掛けづくりを商店街との連携の中で行い、地域の活性化につなげられないか。お寺に問い合わせると、思いがけない事に「風呂吹き大根」は今日でも宗祖・親鸞聖人をしのんで十二月に行われる法要の場で信徒に振る舞われていることが分かった。これを商店街を訪れる市民や観光客にも提供することで、円光寺の歴史に目を向けてもらうきっかけとしたい。
 こうして、平成十六年十二月、『風呂吹き大根のお接待』が生まれた。お寺が代々受け継いできたレシピの公開と境内の開放を快諾。地元商店街が必要な調理用具などを準備し、松山市食生活改善推進協議会のみなさんが三百人分の調理を引き受けてくれた。むろんこの催しだけで、商店街の客がにわかに増えるわけでも、売り上げが倍増するわけでもない。ただ、こうした歴史を有し、そこから生まれる文化を大事にする姿勢が、商店街の魅力としていずれ光を放ち始めるのだと思う。
 子規の句碑ともう一つ、私を驚かせてくれた碑が円光寺にはある。「松山市制誕生の地」がそれ。初代の松山市長は市役所が完成するまでの一時期、ここで執務にあたったのだ。時あたかも、四国初の五〇万都市誕生という合併を控えていた。そこで私達は、新松山市の誕生祝賀イベントとして、松山市誕生の地・円光寺での餅つきを提案した。この餅つきには松山、北条、中島でそれぞれとれたもち米を使う。臼の中で一つになった餅“合餅(がっぺい)”を市民に振る舞い、新生・松山市の発展と新しい年の幸せを願うというものだった。これもこのタイミング、この場所だからこそ意味を持つ、オンリーワンの取り組みの好例と言えるだろう。
 あるいは、円光寺の明月和尚と聞いて「明月の書は松山藩の宝なり」と語り継がれた、近世の三筆としての彼を思う御仁もいるかもしれない。であるならば、商店街の正月行事として、円光寺の本堂で書初め大会を行ってはどうだろう。作品は後日審査し、もちろん商店街で表彰式・展示会を開くのである。これも、他の商店街には真似のできない取り組みである。
 円光寺という小さなお寺一つを例に取っても、地域がやれること、私達大人がやるべきことはまだまだたくさんあることに気づいていただけただろう。若者が言う。「ここには何も無い」。故郷をあとにする若者に反論する材料を私達大人は持ち合わせているか。若者が気づけずにいる魅力、楽しみ方を私達大人は示してあげられるだろうか。十二月十四日、五回目の『風呂吹き大根のお接待』が今年もまた行われる。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第四回 元祖愛媛のご当地バーガー 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 去る十一月三十日、J2愛媛FCの今季ホーム最終戦。試合前に「じゃこかつバーガー」四百個を売り切り、イケメン連のこのプロジェクトも三年目の幕を閉じた。
 「じゃこかつバーガー」とはイケメン連が考案した知る人ぞ知る「愛媛のご当地バーガー」。開発のそもそものきっかけは、三年前の愛媛FCのJ2昇格だった。クラブチームの安定的な運営を目指すためには、とにもかくにも試合へのより多くの集客を図らなければならない。プロスポーツチーム誕生をいかにして地域の活性化に結びつけるのか。チームを盛り立てていくために、イケメン連としてできることはないだろうか―。
 そんな議論の中から出てきたのが、試合+αの楽しみをいかに創出するかということだった。元々のサポーターは別として、新たなファン層を獲得するためには、試合に足を運ぶ「きっかけ」となる+αが絶対に必要だ。入口は何だっていい。とにかく一度、生で観戦するスポーツの臨場感、サポーターの一体感、照明に照らされた芝の美しさに触れること。そこでの感動体験が次につながる。
 愛媛FCのホームゲームには+αの楽しみがあるという情報発信。その一つのアイデアがスタジアムグルメの開発だった。アメリカの大リーグやヨーロッパのサッカーに付き物なのが名物のスタジアムグルメ。ビール片手にそれらを頬張るというのはスポーツ観戦の楽しみの定番だ。
 なぜに「ご当地バーガー」だったのか。Jリーグに参戦するということは、県外チームとの対戦が定期的に愛媛で行われるということである。当然、筋金入りのサポーター達は全国各地から応援にやって来る。その大半は駅や空港からスタジアムに直行し、試合が終われば、そのまま帰路につくことになる。そんな彼らに愛媛の地域情報を一つでも二つでも多く持ち帰ってもらいたいとの思惑があった。折しも、長崎の「佐世保バーガー」が元祖・ご当地バーガーとしてマスコミの注目を集め始めていた。その後の「ご当地バーガーブーム」のまさに芽だしの時期であった。このタイミングで、その追い風に乗らない手はなかった。
 何をもって愛媛のご当地バーガーとするか。真っ先に浮かんだ具材は「じゃこてん」だったが、若年層の嗜好を考え「じゃこかつ」にした。じゃこかつというのは、じゃこてんの材料であるハランボのすり身に刻んだ野菜などを加え、パン粉を付けて揚げたコロッケ風のもの。パンは当時まだ目新しかった「米粉パン」。米粉の可能性を周知することで、米の消費拡大につなげたいという気持ちもあった。
 我ながら絶妙の取り合わせだったと自負しているのが付け合わせに選んだ「緋の蕪漬け」。はじめこのアイデアを聞いた誰もが否定的なコメントを寄せたが、口にすると大いに納得した。最近では県外のサポーター達が自身のブログなどで「緋の蕪漬けがいいアクセントになっている」などとわざわざ触れてくれるほどだ。松山では昔から正月のお節に欠かせない伝統食材であった緋の蕪漬けも、各家庭における食環境が大きく様変わりする中で、しだいに存在自体が小さくなっていることを常々淋しく思っていた。「じゃこかつバーガー」を通じて、忘れ去られようとしている地域の素晴らしい食材に今一度スポットを当てたい、そんな狙いもあった。
 嬉しいことに「じゃこかつバーガー」は大好評を得、県内外のサポーター達の間では「勝つ」験担ぎとしても定着。某サッカー解説者はこれを食するのを来松の楽しみにしてくださっているし、Jリーグのチェアマンもお気に召したようである。新聞、テレビの報道をはじめ、トレンド情報誌や経済誌にも町おこしの取り組み事例として取り上げられたことで、愛媛・松山を全国に売り込むことにも成功した。このようなことを評価してもらい、昨年六月にはイケメン連と愛媛FCとの間で「町おこし協力宣言」に調印。じゃこかつバーガーは、いわば、愛媛FC公認のスタジアムグルメとして販売されることとなった。
 「じゃこかつバーガー」登場以降、県内でも各地で地鶏や豚、鯛などを使ったそれぞれの地域のご当地バーガーが続々と誕生している。これらは地産地消や地域活性化の話題づくりとして結構なことだが、「じゃこかつバーガー」の類似品が出回るのには困惑するばかりだ。「愛媛の港で水揚げされた新鮮な魚のすり身で作ったじゃこかつと緋の蕪漬けを米粉パンではさんだもの」。これがイケメン連オリジナル「元祖・じゃこかつバーガー」の定義である。
 ホームゲームのたびにブースを構え販売するのは正直しんどい。学業とサークルとバイトの時間をやりくりしながら、このプロジェクトに携わってくれている学生メンバーは身内ながらホントによく頑張ってくれていると思う。スタジアムにはいても、いつも試合を直接観戦することはない。サポーター達の胃袋を満たし、いい応援をしてもらう。これが我々の愛媛FCへの応援のカタチだから。スタジアムの内と外。舞台は違っても気持ちは同じ。そう、熱くなれ、この街のために。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第五回 いいアイデアとは取り合わせの妙 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 アイデアは何もない所から突如として湧いてくるものではない。一見そのように見えて、実は既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない。野球拳おどりのイケメン連の例で言えば、祭りも、衣装に使った松山縞も砥部焼もすでにそこに存在したもので、何ら新しいものではない。そこに時代のキーワード「イケメン」という切り口を付加したことで、新しさ、面白さを感じてもらえたのだ。
 アイデアを生み出すために欠かせないのが情報収集だが、必要かつ有益な情報を効率的につかみ取るためには当然“センス”も必要になってくる。このセンスがいい人がすなわち有能な企画マンということになるのだろうが、我々凡人とて日頃からトレーニングを積むことによって、そのセンスを磨くことは十分に可能だ。
 まずは、そのときどきの時代のキーワードをこちら側にひきつけて考えて見る習慣を身に付けることだ。よく「ウチは田舎で、これといった観光施設も何もなくて・・・」とこぼす行政マンがいるが、「健康・いやし・エコ」が求められる昨今にあっては、自然豊かな田舎の暮らしぶりが実は時代の最先端をいっていることもある。欠点、短所は見方を変えれば、利点、長所になるのだ。自分の会社、売ろうとしている商品・サービスのどこが時代のキーワードに合っているのか、その点を際立たせるだけで、メディアの食いつきも消費者の反応も大きく変わってくる。
 かれこれ五年程前の話になるが、観光業界のある会合に呼ばれて講演に出掛けた。参加者の多くがドラマ「坂の上の雲」への期待を口にしたが、その前に小説「坊っちゃん」発表百年の節目が目前に控えている事に気づいている人は少なかった。そこで私は言った。「坊っちゃん団子は緑・黄色・茶色の三色です。この緑をピンクに変えるだけでマドンナ団子になるでしょう。ホテルの客室に『坊っちゃん』の小説を置いたら、道後の湯につかる観光客の旅情はさらに深まるでしょう。私の言う活性化とはそういうことです。ドラマへの期待もいいけれど、そういう小さなことから取り組みませんか」。
 この問いかけに一六本舗さんが応えてくれて、二〇〇六年、小説「坊っちゃん」誕生百年というまたとない最高のタイミングで「マドンナだんご」を世に送り出してくれた。ヒット商品に成長した一番の理由はもちろん商品そのものの魅力だが、百年に一度という千載一遇のタイミングを生かしたことで、強力な追い風を受けたことは疑いようのない事実だろう。
 「坊っちゃん百年」の切り口は何も観光業界だけの専売特許ではない。物語の中で、三津浜の沖に浮かぶ四十島という小島が登場人物によってターナー島と名付けられる。イギリスの画家、ターナーの絵にありそうな景観というのがその理由であったが、この部分から着想を広げれば「ターナー島親子釣り大会」もいいだろうし、県立美術館で「ターナー展」が企画されてもいい。実現していれば、それまで「釣り」「美術」に縁遠かった人たちの興味関心を新たに喚起できたはずである。
 昨年、大河ドラマ「篤姫」が大きな注目を集めた。ご当地鹿児島はこれを誘客につなげようと当然盛り上がったわけだが、実は物語の初めの部分で、宇和島藩八代当主・伊達宗城(むねなり)が高橋英樹さん扮する島津斉彬と並んで登場した。恥ずかしながら、それまで伊達宗城のことをよく知らなかった私は早速、宇和島市立伊達博物館を訪ねた。ドラマを見ていたこともあり、歴史上の人物が身近に感じられ、収蔵品の素晴らしさもさることながら、こうした偉人や文化を生み出した宇和島の風土に感嘆した。と同時に思ったのである。一体、どれだけの市民がここを訪れたことがあるのだろう。道後の観光客に宇和島まで足を運んでもらうためにも、「宇和島から見る大河ドラマ『篤姫』とその時代展」といった企画展を開いてはどうだろう。そう思い学芸員に尋ねると、宗城にスポットを当てた企画展は数年前に実施済み。大河ドラマに関連した企画の予定はない、との返事だった。なるほどと、いかにも研究者らしいその返答に私は至極納得すると同時に失望もした。担当者を責めるつもりはない。博物館は大河ドラマのためにあるわけではないし、取り組みたいテーマは宗城以外にもいくらもあるだろうから。しかしである。誰のための博物館なのだろう。なぜそこに学芸員という専門家が必要なのだろう。その文化財の価値を気づけずにいる、見出せずにいる多くの人たちに、どうしたら興味を持ってもらえるか、郷土の宝を大事にしようという気持ちを育んでもらうか、水先案内人として分かりやすくいざなってあげるのも美術館・博物館の大切な役割の一つではないかと思うのである。
 さて、今秋からはいよいよスペシャル大河「坂の上の雲」が始まる。坂の上の雲ミュージアムだけのことではなく、松山の観光業界だけのことでもなく、この機会を愛媛県民それぞれがおのおのの立場にどう引き寄せ、どう生かせるのか、それを考えるか考えないかで、この効果は何十倍、何百倍の開きを生むことになる。(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第六回 人生は深いえにしのふしぎな出会いだ 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 二〇〇七年五月一日。かねてから温めていた企画をいよいよ形にするときがやってきた。祈りの詩人、坂村真民さんの作品展。真民さんは「念ずれば花ひらく」「二度とない人生だから」などの詩作をはじめ、愛媛県の農林水産物キャッチコピー「愛媛産には、愛がある。」の揮毫でも知られる詩人。前年十二月に九十七歳で他界する直前まで世界の平安と人類の幸福を祈りながら詩作に励んだ真民さん。その偉業を県内外の一人でも多くの人に知ってもらいたいと、場所は大改装を終えたばかりの萬翠荘に決めた。目と鼻の先にはオープンしたばかりの「坂の上の雲ミュージアム」がある。ゴールデンウィーク中、ミュージアムや松山城周辺の観光に訪れた人が、たまたま足を踏み入れた萬翠荘で真民さんの作品に出会う。真民さんのことをすでに知っている人はさておき、まだ知らない人たちに、一篇の詩やことばとの出会いがその人の人生を変えるという奇跡があることを知って欲しかったのだ。
 真民詩との出会い、それはまだ私が京都にいた頃のことだった。急用ができた同僚の代役で女性合唱団のコンサートの司会を引き受けた私は、その日に初演された合唱組曲『二度とない人生だから』の作詩の部分にその名前を見出した。残念ながら、その瞬間まで真民さんのことを知らなかった私だったが、深い慈愛と祈りに満ちたメッセージは作曲家・鈴木憲夫氏の美しいメロディーとともに私の心を鷲掴みにしたのだった。
そして、愛媛への転勤。ご縁のあった声楽家の豊田千恵子さんに京都で聴いたその合唱組曲を紹介すると大層気に入り、ご自身が指導する女声合唱団「ひがしコーラス」のレパートリーに早速加えて下さった。そうだ、真民さんの傾倒する一遍上人の命日に、道後・宝厳寺にある真民さんの石碑の前で『二度とない人生だから』を歌ってもらおう、真民さんにも是非聴いていただこう。その前に一度ご挨拶に伺おう・・・そう思いながら、日々の雑事にかまけ、行動に移さぬままいたずらに月日は流れ、そして、真民さんは帰らぬ人となってしまった。その時間も作れぬほど忙しかったはずはない。己の怠慢にすぎぬ。言いようのない淋しさと後味の悪さが残った。
 それから半年後。イケメン連の学生メンバーであるNを連れて、砥部町にある「開花亭・朴(ほお)庵」を訪ねた。ここは晩年、真民さんが月例会で全国から集まった人たちを前に人生をいかに生きるべきかを説き続けた場所である。随所に掲げられた真民さんの詩に向き合いながら、私はNに言った。「真民さんのメッセージをより多くの人たちに届けたい。そのために展覧会を企画したいがどうだろうか」。「いいですね、やりましょうよ」。二つ返事で協力を引き受けてくれた。そして彼は言った。「帰りに、本屋に寄ってもらえますか。真民さんの本を求めたいので・・・」。この日初めて真民さんの詩に触れたNが、彼なりにそのメッセージをしっかりと受けとめてくれたことが嬉しかった。そして、Nのような若者たちと活動できる我が身の幸せを噛み締めた。
初公開となる大型作品を含む直筆詩書およそ三十点を展示紹介した展覧会には六日間でのべ六千三百人という予想をはるかに超える大勢の人が訪れた。関連イベントのコンサートでは「ひがしコーラス」のみなさんに『二度とない人生だから』を披露してもらった。会場に満ち満ちた、真民さんのことだまが、メロディーにのってゆっくりと漂い始めたのが「見えた」気がした。この感動的な時間がいつまでも続いて欲しい。心の底からそう願った。帰り際、会場を後にする人たちが涙しながら声をかけてくれた。「素敵な企画を本当にありがとう」。
 来場者からの励ましにも背中を押され、翌春、子規記念博物館で二度目の展覧会も成功裏に開催できたことは大きな喜びであった。そして、この展覧会の準備の中で四十年以上前の真民さんのあの詩に出会ったのだ。

『私は墓のなかにはいない』

わたしは墓のなかにはいない
わたしはいつも
わたしの詩集のなかにいる
だからわたしに会いたいなら
わたしの詩集をひらいておくれ
虫が鳴いていたら
それがわたしかも知れぬ
鳥が呼んでいたら
それがわたしかも知れぬ
わたしはいたるところに
いろいろな姿をして
とびまわっているのだ
墓のなかなどに
じっとしてはいないことを
知っておくれ(途中割愛)

*** *** ***

 何と言う素敵な巡り合わせだろう。すぐにこの詩が収められた詩集を『千の風に〜』を歌う秋川雅史さんに贈ったことは言うまでもない。
 今年二〇〇九年は真民さん誕生百年の年。こういう時世だからこそ、真民さんが大切にしたことだまの力をもう一度信じたい。地元・砥部町では秋ごろに記念展を開催予定とのこと。今度はどんな出会いが、どんな素敵な奇跡をもたらしてくれるのか楽しみだ。真民さんの愛したタンポポの花が、今年もまた咲き始めた。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)



第七回 愛媛の夢のある話 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

▼松山を代表する民謡「伊予節」に登場する名所・風物をバスで訪ねるツアーが人気を集めている。これはお座敷文化の継承発展に取り組むNPOと地元のバス会社が共同で企画した。松山駅を出発し、伊予かすり会館や西法寺の薄墨桜などを見て回ったあと、市内の飲食店の座敷で芸者さんの「伊予節」の舞を鑑賞。昼食には緋の蕪漬けを添えた松山鮓(ずし)と五色そうめんを堪能し、最後は道後温泉本館前で解散となる。「坂の上の雲」のドラマ放映が決まり、高まる松山観光への期待に応えようと企画したが、参加は現在のところ市内在住者がほとんど。夫婦で参加した田中広美さん(六四)は、「松山で生まれ育ったが初めて行くところばかり。松山はいい所がたくさんあるので県外の友人たちにも勧めたい」と笑顔だった。

▼しまなみ海道開通十周年を記念して年明けから始まった「愛媛しまなみ博09」が県外観光客に好評だ。これは二〇〇四年に南予で開かれた「町並博」を参考にパビリオンなどの箱物施設は作らず、既存の資源を活用した催し。広域合併した今治市には大山祇神社やバラ公園、亀老山展望台といった見どころや菊間瓦の資料館、野間馬ハイランドなどの親子で楽しめる観光施設も多い。しかしこれまでは大型連休などの催しは個別に広報していたため発信力に乏しく、情報が対岸の中国地方や四国の他県まで届いていなかった。架橋十周年を機に「しまなみ博」として連携してPRに努めたところ、旅行代理店なども積極的に旅行商品を企画。すでに、大型連休中の団体予約などが入ってきているという。広島から家族で初めて今治を訪れていた男性は「しまなみ博というネーミングにつられて。見るところが多くて一泊では時間が足りない」と満足した様子だった。

▼船上からお花見はいかが―。松山市の市民団体が堀之内のお堀に浮かべたボートから満開の桜を楽しむ催しの参加者を募集している。桜の開花に合わせ、えひめこどもの城から借り受けたボート二艘をお堀に浮かべ、南堀端と北西角の間を遊覧する。堀之内では公園整備事業が進められているが、住民がまちづくりに主体的に関わる機運を高めようと今年初めて企画。主催した団体の代表は「いつもより目線を低くするだけで、いろいろな発見があるはず。その気づきの視点をそれぞれの地域づくりに活かしてほしい」と話す。試験的にボートが浮かべられたこの日は、通行人たちが白鳥とともにお堀に浮かぶボートを不思議そうに見下ろしていた。

▼県立とべ動物園が先月から導入した動物園行きの路線バスが、週末には乗車率一二0%を上回る事態を引き起こしている。来園者増を目指し導入したのは、車体がライオンの形をしたいわゆる「ライオンバス」。これまでは園内駐車場と動物園の正面ゲートを往復していたが、インパクトある車体を活用した宣伝効果をねらい、松山市駅から動物園に向かう路線バスの車両の一台として走らせることにした。効果は絶大で、すれ違うドライバーも国道をライオンが駆け抜ける光景に釘付け。信号待ちの間にはカメラを向けられることも珍しくない。動物園にはライオンバスの運行スケジュールを問い合わせる電話が急増。先月の来園者は前年比三〇%の増加となった。子ども連れの次に増えているのが二十代のカップル。関係者は「ライオンバスが動物園の存在を思い起こすきっかけになったようだ。大人も十分に楽しめるスポットであることを今後もアピールしていきたい」と話している。

▼昨年、東京・銀座にオープンした愛媛の県産品を扱うセレクトショップでみかんの花から採ったはちみつが人気を集め、入荷待ちの状態が続いている。みかんのはちみつは以前から扱っていたが、同店のスタッフがみかんの花言葉が「花嫁の喜び」であることに着目し、製造元に小さなガラス瓶に入った商品を提案。引き出物好適品として並べたところ、急激に売れ始めた。「披露宴は東京で開くけれど、何かしら愛媛らしさを取り入れたい」という県出身者のニーズに合致した。近く結婚式を挙げる予定の女性は「甘いはちみつがラブラブな私たちにピッタリ」と百個予約していた。同店では希望に応じて“愛の巣”をイメージした蜂の巣入りの商品も用意する。

▼今年の夏はどじょう汁でバテ知らず―。輸入食材に対する消費者の目が厳しくなる中で、夏場に需要のピークを迎えるうなぎは国産品が品薄状態。ならば、夏バテ予防に効果があり、うなぎよりもヘルシーなどじょうを再評価しようと、飲食店などで作る協議会がキャンペーンを始めた。松山の郷土料理にどじょう汁があり、かつては滋養食として人気が高かった。かの正岡子規も好んで食べたという。しかし最近は市内でどじょう汁を提供する飲食店も数えるほど。このまま消滅するかに見えたが、国産うなぎの価格高騰を逆手に取った。幸いなことに宇和島市内で休耕田を活用したどじょう養殖事業が地元銀行の支援を受け本格化。県内での安定的などじょう確保が可能という好材料も。

……とここで目が覚めた。四月一日、万愚節(エイプリルフール)に見た夢の、ある話。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)


第八回 へちまを食べる? 食べよう! 〜イケメンのエネルギーを活用したまちづくりへの挑戦

 愛媛から沖縄・那覇に居を移して早八ヶ月が過ぎた。サラリーマンの宿命とはいえ、転勤はとにかくエネルギーを要する。身辺整理に引越しという物理的エネルギーはもちろんのこと、人間関係だってリセットされ、一から築き直さなければならない・・・。社会人になりたての頃はそう思っていたが、最近では実はそうではなく、すべての物事はつながっているのではないかと思い始め、その思いは年々強くなっている。初めての勤務地、長崎でたまたまお茶の稽古を始めたところ京都に転勤になり、京都勤務時代に俳人の黛まどかさんに誘われ、坂東三津五郎さんや辰巳琢郎さんらと句会を楽しんでいたら、今度は俳都・松山へ。京都でのお座敷文化に触れる経験がなければ、松山で野球拳に興味を抱くこともなく、その後のイケメン連も存在しなかったのかも知れないのだから人生わからない。
 ひょんなことから始まったイケメン連の活動もこの春で五年が過ぎた。振り返ってみると実に多くの種をまき続けてきたものだ。「みかんジュースの出る蛇口」「銀天街・円光寺の風呂吹き大根のお接待」「坂村真民展」「オレンジデー」「ゆるキャラ大集合」「東雲神社での能の上演」・・・。アイデアと行動力だけで続けてきた種まきだったが、それは確かに芽を出し、花を咲かせ、実をつけ始めた。それらはゆるやかにイケメン連の手を離れ、それぞれの収まるべきところに収まってゆく。「自分の故郷でもない愛媛のために、よくそこまでできますね」と感心される。で、私は戸惑う。故郷であるかどうかはそれほど重要だろうか。あの人が喜んでくれたら、この人が笑顔を見せてくれたら、私も嬉しい。ただそれだけのこと。その幸せな気持ちが波紋のように広がれば、それはいつか私の故郷とも過去とも未来ともつながっていく。
 この春、自宅のベランダにへちまの種をまいた。新天地に身を置くことは、自分に新たな価値観、視座を与えてくれる。これは実に楽しいことだ。沖縄ではへちま(ナーベーラー)をよく食べる。今では全国区になったゴーヤーと並ぶポピュラーな夏野菜だ。ゴーヤーが豆腐入りのチャンプルーなら、へちまは味噌煮(ナーベーラーンブシー)が最高だ。ところが、本土ではほとんど食べる習慣がない。へちまからの連想と言えば、たわしかせいぜい化粧水ぐらいだろう。しかし、へちまは美味しいのである。こんなに旨いものを食さないのはモッタイナイ。
 生まれつきお節介な私はなんとか「へちま食」を全国に広めたいと考えた。愛媛・松山に暮らした私の脳内回路は「ナーベーラー→へちま→糸瓜忌→正岡子規」とつながった。そうだ、松山の小学生たちとへちまを育て、実ったへちまを料理して食べよう。食べることに貪欲だった子規がへちまを食べたら、一体どんな感想をもっただろう。想像するだけで楽しい。へちまで緑のカーテンを作れば地球温暖化を考える環境学習、実ったへちまは食育に活用すれば、一石二鳥の教育プログラムの完成だ。もちろん、これは全国どこでも実践できるが、まずは子規の故郷・松山から発信するところに大きな意味があると思っている。もちろん、この食文化を育んだ沖縄への敬意は忘れずに。今年の夏休みまでには何らかのカタチにすべく関係各所と動き始めたところだ。
 先日、愛媛県倫理法人会の皆さんが沖縄を訪れた。沖縄の会員との交流会の席に声を掛けていただいた私は、自己紹介の中でこのプランの概要を話した。ステージから降りると、沖縄の出席者が駆け寄ってきて「へちまのアイデア、感動しました。みんな全国に広めたらいい、と口では言うんです。でも実際に行動に移す人はいなかった」。その交流会の余興で宮古島の会員が「久松五勇士」という郷土芸能を披露した。勇壮な櫂さばきを交えたその踊りを、私は漁の様子か何かだろうと眺めていたが、あとで調べて驚いた。久松五勇士とは、日露戦争時の日本海海戦に先立ち、バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた五人の漁師の呼び名だったのだ。当時の宮古島には通信施設がなかったため、五人は十五時間、一七〇キロの距離をサバニ(木舟)を必至に漕ぎ、さらに三十キロの山道を歩き、情報は八重山郵便局から本土に向け打電されたという。踊りはその史実を伝えるものだったのだ。後日問い合わせてみたが、特に「坂の上の雲」を意識しての余興ではなかったと言う。無意識に用意した演目が、愛媛と沖縄をつなげていた。秋から始まるドラマに、宮古島の五人の漁師の姿はないだろう。でも、私はドラマのそのシーンを見るとき、きっとこのことを思い起こすに違いない。
 一人の人間が一生のうちに尽くせる力など微々たるものだ。しかし、人がつながり人をつなげることができれば、より大きな成果を得ることができる。いま自分がここにいることの不思議。折しも今年は薩摩藩が琉球に侵攻して四百年の節目の年だ。歴史をどう評価するかは意見の分かれるところだろうが、鹿児島出身の私が、このタイミングで沖縄に赴任したことの、人事を超えた次元での意味を考えずにはいられないのである。

(まちづくりNPOイケメン連プロデューサー 白鳥哲也)




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